安土桃山時代の武将大名で、豊臣家最大の忠臣である石田三成は、家康(勝者)サイドからみて、官僚的で狭量な、頭でっかちの融通が利かない頑固な人物と描かれる事が多い。しかし、近年は、司馬遼太郎氏、小和田哲男氏、堺屋太一氏等の影響からか評価が変わりつつある。
   秀吉没後、五大老筆頭の徳川家康と対立し、雌雄を決するべくついに「関ヶ原の戦い」に臨むも、小早川秀秋など味方の裏切りによって敗れてしまう。「関ヶ原の戦い」後は敗走するが追捕隊に捕縛され、六条河原で斬首された。しかし、彼は20万石の一家臣でありながら、250万石の巨大な大名徳川に戦いを挑んだ果敢な男だ。
    豊臣秀次事件や蒲生秀行のお家騒動で路頭に迷った旧臣たちを召抱えていることです。そんな三成の姿に心を打たれた秀次の旧臣(若江八人衆ら)や、旧蒲生家臣団は深く恩を感じ、家臣となってからは誰よりも忠勤に励み、関ヶ原の合戦では三成のために獅子奮迅の働きをしました。また、三成は領国経営にも心を砕き、領民の負担を減らし公平を旨とする掟書き発行しています。三成の死後も感謝の気持ちを忘れなかった佐和山の領民は、この掟書き表装あるいは裏打ちして宝物の如く扱い、大切に保管しています。
    明治40年、京都大徳寺三玄院の石田三成の墓から骨が発掘された。発掘資料から後年、復顔や体格の分析がおこなわれた。それによると「女性のような骨格、頭形は長頭、鼻は高く鼻筋が通っており、かなりの反っ歯、身長156cm前後」と報告されている。
   関ヶ原の合戦後、徳川家康は「三成は日本の政務を取りたる者なり。大将の盛衰は古今に珍しからず」と高く評価していますし、徳川光圀も「石田三成は、豊家の忠臣」と率直に語っていた。